藤原兼房 (中宮亮) (FUJIWARA no Kanefusa (Chugu no suke, Assistant Master of the Consort's Household))

藤原兼房 (ふじわら の かねふさ、 長保3年(1001年) - 延久元年6月4日 (旧暦)(1069年6月25日))は平安時代の貴族政治家。
父は中納言藤原兼隆(粟田関白藤原道兼の嫡男)。
母は源扶義の娘。
正四位下、中宮亮。

藤原道長の側近として一定の政治力を持つ父の後を継ぎ、讃岐国守、備中国守、右少将などを歴任する。
時として粗暴な振る舞いも多く、寛仁2年(1018年)に藤原定頼を宮中で追いかけまわしたことや、治安 (元号)元年(1021年)に源経定と乱闘したこと、同3年(1023年)に藤原明知に集団で暴行を加えたことなどが記録に残されている。
こうしたことも影響してか、政治家として多くの人望を集めることはなく、公卿昇任は果たせずに終わっている。

その一方、歌人としては名を著し、勅撰集に16首が入首している。
柿本人麻呂を崇敬するあまり、夢にその姿を見て、それを絵に描かせて秘蔵していたという。
能因や相模 (歌人)、出羽弁といった歌人達と交流があり、江侍従との間には一女(左大臣家少輔)を儲けている。

また尊卑分脈や宇都宮系図などによると、兼房の子に藤原宗円がおり宇都宮氏の祖となったとされる。
しかしこの説には異論もあり、正確なことは分かっていない。

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